出題のされ方は毎年同じ
面接
傾向と対策
大学の特徴
合格者の志望理由例
▼スポンサーリンク▼
小論文
傾向と対策
過去問の模範解答集
2022年度(教養-飾りと命綱)
問1
教養は教育と異なり、人間の自由な精神によって主体的に学ばれ身についたものを指す。教養は、人々が幸運にあるときには人の精神を秩序付け飾りとなるが、幸運に恵まれるだけがよい人生ではなく、選択によって不運な状況に陥ったときには困難を克服する命綱となって賢い選択を実現させる。教養の本質は前者でなく、後者のような最善の選択を支える「人間の根」としての教養にあり、自分自身の中に形成された生きるための底力となる。
(200字)
問2
本文では、直面するさまざまな困難を打ち克つ力として教養が重要視されているが、同様のことが医療現場でも言えると感じた。
2019年、中国の武漢を発端として感染拡大した新型コロナウイルスは、その未知な実態から全世界を不安と恐怖に陥れた。しかし、生命科学の教養を血肉と化していれば、「新型であっても、ウイルスには変わりない」と冷静に判断し、手洗い・うがい・3密予防といった適切な対応をとることができた。
また、医療現場には様々な宗教観・価値観をもった患者さんが来院し、ときに未曾有の判断を迫られることがある。その際も、「医療の目的に立ち返り、救命と健康の回復・維持に努めるべき」とか「自己決定権も尊重すべき」という生命倫理的教養が備わっていれば、適切な対応をとることはできるだろう。
このように、未曾有の困難に直面することの多い医師にとって、「人間の根」となるような教養を身につけておくことは肝要である。
(400字)
2021年度(科学と権威主義)
問1
科学的知見の確度の判定には現実的な困難さがあり、人々は「分からない」という心理的不安から逃れるべく、権威の高さと情報の確度を同一視して判断する権威主義にすがりつく。しかしこれは、間違えることのできない“硬直したもの”を生み、可塑性ある“科学の生命力”を奪うことに繋がってしまう。物事を先入観なくあるがままに見る理性主義的思考をもって、個々の自由な営為の集合体であることが、生きている「科学」には必要だ。
(200字)
問2
私の目指す臨床の現場においても、「医師の方が専門性が高いから」という権威主義的理由で、患者さんが尻込みして何も指摘できない状態になることがある。このような“硬直した”臨床現場を解消するため、私は以下に2点の改善策を提示したい。
1つは、医師が常に謙虚な姿勢を持つことである。「非専門家からの批判は無知に由来する」と考え、権威主義に陥ってはいけない。患者さんからの指摘や話すことを真摯に受け止め改善し、ときにセオリーでなくとも、患者さんの望む医療があればそれへ歩み寄っていく努力をすることが大切だ。
そしてもう1つは、信頼関係を構築することである。信頼できない医師を目の前にしては、患者さんも自身の感じたことや想いを話すのがためらわれてしまう。そのため、観察・傾聴・共感といった臨床コミュニケーションを通じ、日頃から患者さんとの信頼関係を築いて話しやすい環境を整えることが肝要だ。
(400字)
2021年度(セレンディピティ)
問1
思いもかけない偶然から生まれる新しい発見をセレンディピティと呼ぶが、この現象は日常的・心理的な場面でも経験され、創造的思考・新しい関心の芽へと繋がってくる。セレンディピティ現象は中心的関心よりも周辺的関心で活発に働くため、テーマを中心部に起き、いちずに考え意志の力だけで成し遂げるは賢明でなく、テーマを周辺部に起き、無意識の作用を活かしてセレンディピティを起こしやすくすることもときには重要になる。
(199字)
問2
筆者はセレンディピティの重要性を説いているが、私たちの目指す医師、とりわけ臨床の現場においてもそれは重要なのだろうか。
患者さんの健康を考えるときは、身体的な側面だけでなく、精神的・社会的な側面も含めて考えるのが理想的だ。そのため、患者第一の医療を達成するには、患者さんの望む治療方法や生活形態等を理解しなければならない。しかし、患者さんの誰しもが「自身がどうしたいか」を明確に把握しているわけではなく、自身の抱えている想いを新たに発見しなければならないこともあるだろう。
以上より、臨床の現場においても、患者さんの抱える本当の想いを引き出すためにセレンディピティは重要であるといえよう。例えば、雑談を交えたり、期間を空け色々な人と会話してもらったり、種々のイベントに参加してもらうことで、「私、本当はこういうのがしたいかも」「こう治療してほしいかも」という想いが見つかる可能性は大いにある。
(400字)
2020年度(林修の仕事原論)
問1
仕事では一流を目指すべきで、そのためには何度も全身でぶつかっていくように「一流」へ触れることが大切である。また、環境に不満を述べ「頑張らなくていい理由」を探すのではなく、よい結果を出すための知恵をめぐらし工夫を凝らすことで成長につながる。そして、仕事に対するプライドは、仕事を受け取った相手の笑顔に支えられたものと捉え、必要なアドバイスは誰のものでも耳を傾け、結果(ゴール)に専心することが大切だ。
(199字)
問2
本文では筆者の考える「一流」の在り方について言及されているが、私たちの目指す医師、とりわけ臨床医における「一流」とはどういったものであろうか。
医療の目的は患者の救命および健康の回復・維持であり、そのためには患者の抱える身体的・精神的・社会的な苦痛を取り除く必要がある。しかし、これらの苦痛は目に見えるものではなく、患者本人から痛み方や部位といった情報を引き出さなければならない。このとき、第三者である医師が信頼できる人でなければ、自身の身体的苦痛について話すのはためらわれるし、それが精神的・社会的な苦痛であればなおさらである。
以上より、臨床医における「一流」とは、臨床コミュニケーションを駆使し、患者との信頼関係を構築できる状態を指すと考える。具体的には、日ごろから患者の所作等を観察し、話すことに対し真摯に耳を傾け、強い興味と関心をもって共感することが大切だ。
(400字)
2017年度(「見る」ということ)
問1
視覚障害者が口にする「見る」「見える」のすべてが、日本語表現として自然な慣用的使用を指すわけではなく、その人自身の主観的な経験や実感を指しているときもある。そのため、「見る」ことは目の専売特許とは言えず、器官をどのように使っているかが重要となる。器官同士で絶対に超えられない壁はあるものの、まずは想像力を働かせ、特定の器官と能力を結び付ける発想を捨てることで、見える人と見えない人の類似性が見えてくる。
(200字)
問2
筆者は特定の器官と能力を結び付けないことの大切さを説いているが、私もこの意見に賛成である。なぜなら、人間は障がいを持って生まれてくる確率が一定数あるが、多様性を重んじる現代においては、健常者と障がい者のあいだでなんら差別されることなく、等しく尊重されるのが望ましいからだ。
上記のような社会を目指すには、特定の器官を失ったことを想定した体験型学習が有効だと考える。具体的には、「総合学習の時間」において、ブラインドスポーツや聴覚障害体験などを行うと良いだろう。目を隠した状態でブラインドサッカーやボッチャを楽しめば、耳で「見る」感覚や、手で「見る」感覚を学ぶことができ、消音用ヘッドホンを用いながら授業を受ければ、先生の指示や友人のサポートを目で「聞く」感覚を学ぶことができる。このようにして、特定の器官を失った人との類似性を見出し、一歩ずつ歩み寄っていくことが肝要である。
(388字)